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News / 2007 / May / 19

チェインオブメモリーズ: Amanda Katsuradaインタビュー

  • Published at 06:24:08 PT
  • Reported by Jeriaska
  • Contributors: Eri Nagakura
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Amanda Jun Katsuradaは聖剣伝説 LEGEND OF MANA、 ベーグラントストーリー,  キングダムハーツなどの数々のゲームの制作に貢献したローカライゼーションのスペシャリストである。群馬県で生まれの Amandaは後にアメリカに渡り、Penn State 大学を卒業する。在学中にアテネで考古学を学んだ彼女の活躍は翻訳、ローカライゼーションだけにとどまらることを知らず、近年では日本のカーラリー雑誌でAmanda の記事を読むことが出来る。今回のインタビューでは、翻訳家や通訳としてのバックグラウンドについて、さらに、テレビゲーム業界での経験について話を聞いた。

群馬県出身の Amanda Jun Katsurada は10 代の終わりに渡米し、Penn State大学で考古学と人類学を学ぶ。 Penn State大学卒業後は、日本に戻り、目黒の旧スクエア本社で、ローカライザーとして勤務する。今回は、スクエアについての印象や、ローカライザーとしてのバックグラウンドについて話をきいた。

Square Haven: こんにちは。本日はインタビューに応じてくださりありがとうございます。

Amanda Katsurada: こちらこそ、ありがとうございます。Square Haven さんのインタビュー記事を読ませていただいたのですが、スクエアに関係するトピックだけではなくて、その人の内面性や、人生についてまでも、うまく引き出しているようなインタビュー記事が多いですよね。ですから、この機会を本当に楽しみにしていたんですよ。

Haven: いつも前もって、その方について調べさせていただいているんです。そういえば、インターネット上でお見かけしたのですが、アマンダさんのご両親は、日本とアメリカという、まったく異なる文化的背景をお持ちですよね。ご家庭では英語と日本語の両方を使いながら育たれたのですか?

Amanda: わたしの母は日本に来た当初、まったく日本語を話せなかったそうです。そして、母が来日して1、2年後に、わたしが生まれました。ですから、家では母はわたしに英語で話しかけ、わたしは日本語で答えるという感じでした。父や近所の人たち、友達とは、日本語でしゃべっていました。英語を使った記憶というのは、夜寝る前の「 Goodnight」ぐらいなんです。すると母が、「 Sweet Dreams!」といって、わたしはそれに「You too! 」って答えていましたね。

Haven: アマンダさんが生まれ育った群馬県太田市について話していただけますか?

Amanda: 太田市は、戦時中、大きな爆弾を作る工場があったので、アメリカの占領下にあったそうですが、現在は、スバルの工場があることで有名です。ですから、地元経済はスバルに頼りきっていますね。その太田市で外国人っぽい見た目をしていたのはわたしとわたしの妹だけだったので、いつもよそ者扱いされていました。中学校にあがるまでは「外人」と呼ばれることもありました。でも、わたしの中では、みんなと同じ病院で生まれて、一緒に育って、なんで「外人」と呼ばれるのだろう、といつも疑問に感じていました。「外人」と呼ばれ、からかわれて育ったのは、太田での思い出の大きな一部を占めています。みんながふざけて「ハロー!」なんていう時は、「わたしは英語なんて話せないから!」って言い返してました。

Haven: アメリカに移住された経緯について教えてください。

Amanda: 家族と一緒ではなく、一人でアメリカに渡ったんです。わたしが 16歳の頃、バレエを習っていて、プロを目指していたのですが、いつも他のバレエスクールに通ってみたいと思っていたんです。そのことを母に相談してみたら、母は「ペンジルバニアの 伯母さんのところに行ってみたら?」って。その時は、ペンシルバニアがどこにあるかも知らなかったのですが、母からアメリカの中でも、すごく歴史のあるところだと聞いて、すぐに「わたし行く!」っていう感じでした。本当に恵まれていたと思うのは、 伯母がわたしを暖かく受け入れてくれたことですね。アメリカの滞在は夏だけの予定だったのですが、結局その後6 年もアメリカに住むことになりました。

Haven: フィラデルフィアでのひと夏のバケーションが、どのようにして6年もの長期滞在になったのでしょうか?

Amanda: 日本では大学に入るためには、入学試験を受けないといけないのですが、その試験に受かるためにはたくさん勉強しないといけないんです。わたしは、バレエのレッスンに多くの時間を費やしていたので、夏の終わりには「ここに残ろうかなぁ」って考えるようになって、結局そうすることにしました。アメリカに残ることを決めてからは、地元の高校に通ったのですが、最初の一年は他の子とコミュニケーションをとるのも難しかったですね。みんなスラングを使うので、わたしは「みんな何言ってるんだろう?」って感じで、英語ではないまったく別の外国語のように感じました。わたしはゆっくり、はっきりと英語の発音に慣れていたのですが、周りのみんなは何を言うときでも、あいまいな感じに発音しているような気がしていました。でも最終的には何とかなって、高校を無事卒業したあとは、 Penn State大学に入りました。自分にとって、それが一番の選択だったと思います。

10代のAmandaはアメリカへの移住を決意する。


Haven: 英語に慣れるまで、苦労されましたか?

Amanda: 高校を卒業した頃、つまり、渡米して2 年たった頃には、他のアメリカ人ともだいぶ意思の疎通が出来るようになっていました。アメリカの歴史や、国家とかそんなものを学んで、だんだんとわたしはアメリカ人になっていったような気がしますね。

Haven: どのようにしてアメリカに行こうと決断されたのですか?

Amanda: アメリカへの移住は計画していたわけではなかったので、流れに乗ってすすんで、すべてがうまくいったという感じでした。だから、まったく別の方角にすすんでいた可能性も、もちろんありますよね。バイリンガルであることをいかして、大企業で PRの仕事をしていたりとか。でもわたしは人間そのものや、その人物をとりかこむ文化や歴史に興味があるんです。そして、わたしの人生で起こる出来事や出会う人たちから、いろんなことを吸収したいと思っています。たぶん、だから翻訳の仕事が好きなんでしょうね。日本とアメリカ、まったく異なるふたつの国での生活を通して学んだことは、ちょっと変わった日本のキャラクターのセリフを英語に訳すときにも役にたっていると思います。

Haven: どのようにしてスクエアの存在をお知りになったのですか?

Amanda: 確か、大学の3年生のときだったと思うのですが、DISCO 主催の日英バイリンガル向けのジョブフェアに行ったんです。そこに来ていた日系の会社のほとんどがアメリカに支社をもっていました。わたしは考古学と人類学を勉強していたので、ある出版社に興味があったのですが、そこではライターや翻訳家のは文系の学生は募集していなかったんです。その会社が探していたのはコンピューター関係のことが出来る人で・・・政治・経済やビジネスを専攻した友人たちにはちゃんと行く場所がありましたし。それで、ふと周りを見渡すと「エンジニアの修士終了者のみ」というサインを出している会社ばっかりでした。わたしは完璧に文系で、そういうブースを訪問することすら許されなかったんです。

そのときは本当に疎外されたような気がしました。ブースを出している会社のリストを見ても、聞き覚えのある会社はほとんどなかったのですが、その内のひとつだけ聞き覚えのあった会社名がスクエアだったんです。わたしはスクエアのゲームについては全然知らなかったのですが、妹がファイナルファンタジーのⅣ ,Ⅴ,Ⅵにはまっていて、天野喜考さんの本を持っていたので、ファイナルファンタジーの名前だけは知っていました。もちろん、スクエアがわたしのような文系の学生に興味があるとは思っていなかったのですが、ゲーム会社がどんな人材を探しているんだろう、と少し興味がわいてきたんです。それで、結局スクエアのブースに行ってみたのですが、そこにいた社員の方々は、他の大企業の社員たちとは全然違って、カジュアルな服装で、ニコニコしていて、すごく、リラックスした感じだったんです。皆さん、スクエアでのお仕事を心から楽しんでいるような雰囲気でしたし、なによりも、そこにいた社員の皆さんの人柄に惹かれたんです。

Haven: では、どのようにして日本のスクエアで働かれることになったのでしょうか?

Amanda: 帰国してすぐに、日本のスクエアでに手書きの履歴書を送り、採用されました。 1998年にスクエアの方との面接を終えたあと、スクエアは、社会人経験のない新卒をめったに採用しないと聞いたのですが、人事の方たちはわたしの人柄を気にいてくださったようで、めでたく採用となったんです。

Haven: スクエアの第一印象はどのようなものでしたか?

Amanda: スクエアに採用されてすぐに、普通の会社ではないな、と感じました。会社にスーツを着ている人なんて一人もいないんです。当時、スクエアにはマッカーサー大尉みたいな軍服に、パイプをくわえた服装で、毎日通勤してくる日本人の社員がいたそうです。それぞれが自分が着たい服で通勤していて、実際にそれが許されるのがスクエアだったんです。これは、どこのゲーム会社でも同じだと思いますが、職場から一切離れないタイプの人たちもいました。他のゲーム会社で、自分のデスクの上に炊飯器を置いている人をテレビで見かけたことがあります。こういうことは、普通の企業ではほとんど見かけませんよね。ですから、会社にいるというよりは、大学みたいだなぁと思いました。服装とか、そいういうものはまったく問題ではなくて、自分の仕事をやり遂げることができるのか、というのが一番重要なんです。作品を完成させてマーケットに送り出すことが出来れば、パジャマをきて仕事をしようが、職場に一週間住み込もうが、まったく関係ないんです。今、お話したのは、もちろん極端なケースばかりですが、働きはじめた当初はすごく驚きましたね。

現在、アマンダは世界ラリー選手権についての記事をラリー雑誌に寄稿している。



Haven: スクエアで働き始めたアマンダさんの一番最初のお仕事は、リチャード・マーク・ハニーウッドさんとのチョコボレースの翻訳だったそうですね。ローカライザーとしての初めてのお仕事はどのようなものだったのでしょうか?

Amanda: このときの仕事に関しては、与えられた時間の割にセリフが少なかったので、リチャードからローカライズの基本について学ぶことができました。予想以上に早く、翻訳を終えることができたので、翻訳の作業が終わると、セリフを自然な話し言葉に近づけるために、リチャードは「じゃ、一緒にセリフあわせをしてみよう。」って提案してきて、毎日毎日、二人でセリフ合わせをしていたんです。「じゃあ、わたしがゴブリンで、あなたが、チョコボね」って感じで。他のみんなは笑っていましたけど、すごく楽しかったですし、最終的にはいいものに仕上げられたと思います。

Haven: 次のスクエアでのお仕事は、聖剣伝説 LEGEND OF MANAでしたね。ストーリーは直接的な関連性はないとはいえ、この作品は後に続く、聖剣伝説2、3、4の出発点ともいえる作品ですよね。このような作品をローカライズするのはどのような感じでしたか?

Amanda: 聖剣伝説の翻訳は本当に楽しかったです。キャラクターもかわいかったし、全体的なデザインや音楽もとてもよかったと思います。そういえば先週、断崖の町ガトのテーマを携帯にダウンロードしたんです。妹は、わたしがガトのテーマが大好きなのを知っていて、ダウンロードできることを教えてくれました。この作品では、わたしは主にキャラクターの名前を担当しました。レディパールと、もうひとり、宝石を核として生きる種族、 珠魅(ジュミ)の中に瑠璃(英語ではlapis lazuli )というキャラがいるのですが、英語版ではElazulという名付けたんです。大学で学んだ人類学の知識をつかって、本来西洋的になりがちな RPGに新鮮な空気を与えることができたのではないかと思います。

Haven: ベイグラントストーリーではアレキサンダー・O・スミスさんやリッチ・アムトワーさんと一緒にローカライズの作業をされましたよね。どのような感じでした?

Amanda: ベイグラントストーリーでは、セリフ以外の部分メニュー画面、ヘルプ、アイテム名などのセリフ以外の部分を担当しました。リッチ・アムタワーさんは、ロスアンゼルス支社勤務なのですが、目黒のスクエアオフィスに何回かいらしたことがあったんです。目黒の本社で勤務していたわたしたちは彼を実際に見たことはほとんどなく、メールのやりとりが主でした。アレックスはとても勉強熱心ですし、2人とも、文学的センスがある方たちなので、ゲームの世界観を壊さずに、物語のクオリティをオリジナルと同じように高く保ったまま、ローカライズすることができたと思います。

Haven: キングダムハーツではローカライザーとしてだけでなく、スクエア、ディズニー間の調整役としても活躍されたそうですね。そのことについて話してくださいますか?

Amanda: キングダムハーツの制作は最初から最後まで本当に大変なことばかりでした。スクエアとディズニーという2つの大企業が、ひとつの作品を作り出すというのは簡単なことではないですよね。たしか、たくさんあるのディズニーの作品の中でも、日本語で書かれた後で英語に訳されたのはキングダムハーツが最初だったと思います。 普通のディズニー作品は、まず英語で書かれ、そして他の言語に訳されていきますよね。キングダムハーツの制作はスクエアにとっても大変な作業部門のスタッフとしては、わたしを含め、ローカライザーの 竹富りょうさん、そして、エディターのジェニファー村木、みんなで締め切りぎりぎりまで翻訳とその手直しをしていたんです。翻訳をやり遂げたあとは、みんな何日も眠り続けることができるぐらい疲れ果てていましたね。

Haven: 現在、Amandaさんは世界ラリー選手権の取材をされ、その記事をラリー雑誌に寄稿されていますよね。どのようにして、このようなジャーナリズムの世界に入ることになったのでしょうか?

Amanda: 今は、主にラリー文化にまつわる記事を書いているのですが、世界ラリー選手権については、2回ほど記事にしました。ヨーロッパではラリーはF1 と同じぐらい有名なんです。F1のようなサーキットではなく、農場や、森の中、山道や砂漠などの、公道や私道を使ってレースをするので、サーキットでのレースを見慣れた人たちにとってもつまらないかもしれないですね。ラリーではタイムを競うスポーツですし、誰が勝っているかはひとめではわからないですから。わたしが始めて観戦したのは、 2001年の ラリー・グレートブリテンだったのですが、道路沿いにはいろいろな言葉を話す、たくさんの人たちが道を取り囲むように立って観戦していました。ちょうどその日は雨が降っていたのですが、みんな傘もささず、毎分ごとに通過していく車に向かって声援を送っていて、試合結果はもちろん、レース会場へ出かけること、次の車が通過するのを待っている間に、友達や家族とレースについて話したりすること、すべてを満喫しているように見えたんです。わたしは、むしろ悪天候までも楽しんでいるような彼らをみて、ラリーってすごく面白いんだなと思ったんです。もしこれが、安全なサーキットでのレースだったら、わたしはきっとこんなに興味が持てなかったと思います。

Haven: 本日はこのようなインタビューの機会を与えくださって、ありがとうございました。アマンダさんの日本やアメリカでのお話は本当に興味深いものでした。

Amanda: こちらこそ、とても楽しかったです。今日は、わたしの人生についてすべて話しつくしてしまったような気がします。わたしにとって、スクエアで翻訳家として働いた経験は、すごく思い出深い出来事ですし、それをSquare Haven の読者の皆さんに紹介することができて、うれしく思います。
インタビュー by jeriaska. 翻訳:Eri Nagakura.




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